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  • 2014.08.20 Wednesday | | - | - | - | - | by スポンサードリンク

 歴史

本堂
 【正法寺のはじまり】
 坂東三十三観音霊場の第十番札所として知られる巌殿山正法寺は、そもそも養老二年(718)沙門逸海が、岩殿の嶺の岩窟に本尊を安置し、正法庵と号したのがはじまりと伝えられています。

【悪竜退治伝説】
 その後の延暦年間(782〜805)、比企の山には悪竜が住みつき田畑を荒らし村人に被害を与えておりました。ちょうどその頃奥州征伐に向かう途中の、坂上田村麻呂の耳に悪竜退治の話が入ります。村人の願いもありこれを退治することになりました。 
 田村麻呂が巌殿山の千手観世音に祈願したところ、旧暦の六月一日、炎暑にもかかわらず一夜のうちに大雪が降ったといいます。積もった雪景色の中、一箇所だけ雪の積もっていない箇所を発見した田村麻呂は、これぞ目指す悪竜の住処と定め観音様授けの矢を放ちます。矢は見事悪竜に命中、討ち取ったということです。
 村人たちは大いに喜び、門々に小麦の殻で焚き火をし、兵士達の労をねぎらい、観音様に小麦のまんじゅうを奉納しました。このまんじゅうは「しりあぶりまんじゅう」と呼ばれています。
田村麻呂のこの霊験が伝わり、延暦十五年(796)桓武天皇の宣旨を賜り、堂宇六十余坊を擁したということです。

【源頼朝ゆかりの寺】
 鎌代時代には、北条政子の守り本尊として、源頼朝の庇護のもと比企能員が復興、一山六十余坊を擁し、坂東三十三観音霊場の第十番札所の命を賜りました。能員が北条時政のために自害をせまられて死去すると、その嫡子時員は追手を逃れて出家し、この寺を守りました。

【室町時代以降】
 のち室町時代にはおおいに栄えたものの、永禄十年(1567)松山城合戦の兵火で焼亡、一山の僧徒は離散してしまいます。その後天正二年(1574)僧・栄俊が中興しました。

 天正十九年(1591)徳川家康により二十五石の寺領を賜ります。   
 院室を兼帯(寶光院・修善院)し、観音霊場参りの巡礼者でおおいに賑わいました。
境内には茶店が立ち並び、門前は巡礼者のための宿屋や商い屋で栄えました。

 寛永年間に失火により諸堂を焼失しましたが、法印恵日により再建。
降って、明治十一年火災により観音堂焼失。
現在の観音堂は明治十二年に高麗村白子(飯能市)の長念寺から移築したものです。

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  • 2014.08.20 Wednesday | 18:05 | - | - | - | - | by スポンサードリンク
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